[コラム]藤井えい子の「鬼の居ぬ間に箸休め」(2017/01)


「いつかのホトトギスよ」




新年明けましておめでとうございます。
大変ご無沙汰しております、藤井えい子です。
本年は継続して、きちんとコラム投稿致しましょう、そうしよう。



さて、岡山での暮らしも丸二年を迎えた。
勤め先での住み込みを一年経た後、部屋を借りて暮らして1年である。

築50年の木造二階建て、各階に畳六畳間がひとつずつ、キッチン、お風呂、お手洗い、ベランダ、押入れが三間。
そこに炬燵がひとつと冷蔵庫、小さな食器棚がひとつ、手作りの本棚が少し、勝手口に洗濯機、ソファが一脚、それとギターが三本。
テレビ、炊飯器、電子レンジはない、音楽を聴くプレーヤーもない、掃除機もない、みんな十年選手だったので、東京を出るときに引退させた。
テレビがないことで退屈することはないし、お米は食べる分だけ土鍋で炊く、余ったおかずは湯せんで温める、うちに響く音楽はほとんど私の歌、お掃除は箒で。


東京に多くのものを捨ててきた。
長年の意地や執着、憧れ、クローゼットに押し込めた溜息、ベッドに滲みた涙なんかと共に。
必要なものはまた買えばいいと思ったけれど、どうやら必要なものなんて大してないようで、手元にあるものできちんと暮らしは機能する。
お化粧も綺麗なワンピースもハイヒールも肩書も、必要なくなった。



朝起きて、家中のカーテンを開けて、顔を洗い、朝ご飯を食べる。
近所の小さなスーパーに季節の野菜や魚が並ぶ、この土地や近海で獲れるもので充分な賑わいだ。
勤めから帰ると、自分のためにいくつかの献立を用意し、手を合わせる。酒は少しあればいい。
風呂を浴びて、さあ眠りましょうと二階の寝室に上がる、灯りをすべて落とすこと、何の音もしない、きちんと一日のお終いを決めてやる。
そしてまた、陽の光に朝を知るのだ。

たったこれだけのことを、長らくないがしろにしてきた。



身体の健康は心を育み、心は身体を巡るということに、私は気付くことができた。
暮らしは単純だ、命は食べることと眠ることでできている。


そればかりに飽きてしまうようなことがあれば、私は歌を歌うことができるし、旅に出ることができる、会いたい人に会いに行ける。
山に登ったり、海を眺めることができるし、酒を味方にすることも、夜を泳ぐことも出来る。
時々、部屋に花を飾ったり、珈琲を淹れたり、うっかり恋をしてしまったり、体温を撫でたり撫でられたり、それなりに忙しいのである。


私はこの倹しくも健全な「暮らし」というものが、三十三年で今が最も面白く、そしてとても愛おしい。



生きること、その習慣を大きく変えるには、それなりの理由が必要かもしれない。勇気も必要だろう。
走り出すと止まれないのだ、一度足を止めてしまうと二度と走り出せなくなるかもしれないという恐怖から。


涙に濡れて眠れぬ夜、「成れぬなら 認めてしまえ ホトトギス」、私にそう言った友人がいた。

その夜、意地悪に聞こえたその言葉が時を経て、私を救ったのだった。




私はここにいます、生きていますって、初めて自信を持ってみんなに言える気がする。
もう走る必要はないの、私。
私はここから、あなたのところまで自分の足で歩いていく。
空も山も海のあなたも、よく見える気がする。
やさしくありたい。