[コラム]理非不知の「鬼の居ぬ間に箸休め」(2015/01)


「十三の花」



昨年末のことである。
大阪は十三という街に歌を歌いに行った。
この街には約十年ぶりに訪れることとなった。



まだ高校を出て間もない時分だった。
いつか故郷に錦を挙げるべく、ギター一本を持って故郷を出た同級生の通い妻をしていた(後に私も大阪へ移り、彼と寝食をともにすることになるのだけれど)。
この彼との四年間は、語るに困らない経験を随分とさせてくれたものである。


十九歳の頃だったと思う、アルバイトを転々としていた彼が珍しくひとつの職に腰を据えて半年くらいが経っていた。どうやら肌に合ったようで、よく職場の人間関係などを嬉しそうに話してくれたもので、私はすっかり安心していた。
今ではそのきかっけもさっぱり思い出せないのだけれど、後に、彼曰く「少し派手な飲食店」というそのアルバイト先がどういったものか知ることになった。

場所は十三、今は無き“大阪バニー”というそれは、イメクラと呼ばれる風俗店だった。
当時、十三では老舗といわれたというその店で、客の呼び込みのアルバイトをしていたのであった。
今でこそ、「気分よく食い扶持稼いで帰ってくるなら、なんでも宜しい」といったところだけれども、まだ十九歳の私には随分と刺激の強い告白であった(今思うと、そんなことで悩んでかわいい)。


当時から、同年代の女性の中では腹の座った質ではあったのだが、そんな私が珍しく心を乱したものだから、同じくまだ若かった彼は気を咎め、上司に退職を願い出たのであった。

しかし、どうしたことかその申し出に首を縦に振らない、何だか偉い人たち。曰く、「俺たちは何ひとつ人様に恥ずかしいことはしてへん。お前の働きぶりはみんな評価しとる。彼女とのことが原因で店を辞める言うんやったら、その彼女をここに連れてこい。俺が話したる」とのことで、果たして、私は風俗店の事務所に招かれたのである。


店舗の向かいに設けられたプレハブ小屋が、お勤めの女性たちの控室であり事務所であった。敷居を跨ぐと早速、乳房を露わにした女性たちのお目見えである。自分も同じものを持っているとはいえ、出逢い頭にそんなものをぷらぷらさせられると、さすがに怯むものである。目のやりどころに困っていると、奥からこっちこっちと男性の声に導かれた。女性たちの「新人やな。まだ素人っぽいね」などという会話を心の中で否定しながら会釈で横切り、声のする方へ歩を進めると、今度はいかにもアレなお兄様方のお目見えである。生唾飲むとはあの状況のことであった。

挨拶もそこそこに、系列全店舗のホームページを見せられ、事業の案内の受ける。「はあ」とか「へえ」とか言っていると、カワカミという男が私に向き直り、彼の仕事ぶりや自身の仕事における信念などを語り始めた。あんなにもはっきりと「説得を受けている」と感じるシチュエーションはなかなかない。

水商売の呼び込みのアルバイトなんていくらでも代わりはいるだろうし、若者であれば門をくぐっては出ていって、そもそも寿命の長いものではなかろう。何故、こんなに彼を引き留めようとするのか、いまひとつ解せなかった。
星の数ほどの女性を脱がせてきた、この人の言うことだって、それなりに聞こえて当然だ。宗教勧誘でも受けている気分だ。そんな風に思いながらも、熱心な勧誘、もとい説得が続くと次第に、彼のことはどうぞ煮るなり焼くなりお好きになさいましという心持ちになり、最後には「彼をどうぞよろしくお願いします」と頭を下げていたものである。

いやはや物わかりのいい彼女でよかったと気分を良くしたカワカミ氏は、「働くことでもなければ見ることないだろうから、店ん中見て行き。社会見学や」と、プレハブ小屋を出てお店へと案内してくれた。

艶めかしくも澱みを隠せない女たちの顔写真がズラリと並ぶ受付、シャワールームにプレイルーム、監視カメラの場所からその精度…未成年が知るにはディープすぎる世界であったけれども、不思議と嫌悪感はなかった。

それからというもの、事務所への出入りやグループの納涼会への参加などを特例で許されることとなった。(実際にお邪魔したことはないのだけれど)


さて、彼はというと私の許しを得たそのアルバイトを続けながら、バンド活動に勤しんでいた。その世界では、勤めの女の子とアルバイトは業務以外の言葉を交わしてはいけないのが鉄則なわけだが、いつからか彼がバンド活動をしていることを知った女の子たちがちらほら彼のライブに現れるようになった。曰く「クロカワさんの彼女って、店では有名ですよ。事務所に乗り込んできた度胸ある女だって」。乗り込んだ覚えはないのだが。

彼は、彼女たちの裸やプレイスタイルや喘ぎ声を知っているのだなと思うと、いささか変な気分ではあったが、どういうわけだか彼女たちに心を許された私は、連絡先を交換したり、一緒に食事をしたり、ライブに出掛けたりするようになった。

そのうちのひとりが、川西に住むイサナ。
私と同い年。18歳で同級生との間にできた子供を産み、その子が既に2歳近くになっていた。同級生と結婚したものの旦那は仕事をしないボンクラという境遇を以てして、彼女をその道に進ませた。小さな市営住宅で倹しい生活をする彼女は、なにも体を売らなくても何とか生活は可能だということだったけれども、ある程度まとまった額の貯金をして、旦那と離婚して、自分で事業をして子供を育てるために、一刻も無駄に出来ないということだった。

そんな彼女の息子のアキトを子守りしたことが幾度かある。
ピョコピョコ鳴るサンダを履かせてやると、歩くと自分の音にえらく喜び飛び回っては転んだりする忙しない子で、散歩中は道行く犬にたいそう執心してはしゃいだ。


私は正直なところ、子供があまり得意ではない。犬や猫も同様。どれも嫌いなわけではないし、可愛いとだって思うのだけれど、どのように扱ったらいいのかがわからいのだ。それらに対して無条件に開放的な気分になれないのである。それは年を重ねるごとにそうなっていった。だもんで、動物を飼いたいと思ったことも、子供が欲しいと思ったこともないに等しい(近年、そんな私にも甥っ子という血を分けた生命体が誕生し、驚くほどの歓喜に心揺さぶられることとなるのだが)。思い返せば、私がこれまでに愛情と時間を割いた他人の子供というと、アキトが最初で最後だったかもしれない。



結果的に“私への罪悪感”と称して、既出の店を辞した後、盛んになった音楽活動を理由に職に就かぬままの恋人を約二年に渡り養うことになる。それにもついに草臥れた二十二歳の頃に彼と別れてから、イサナとも少しずつ疎遠になっていった。

確か、私が上京する少し前、歳にして二十四歳の頃だったと思う。ミナミの雑踏でイブニングドレス姿の彼女を見た。隣を歩く男性から絡ませた腕を放し、男が雑踏に紛れていくのを確認して彼女に声を掛けた。大きな目をいっそう大きくして、彼女は私の名前を呼んだ。
旦那とは離婚し、心斎橋に越してきて宗右衛門で小さなクラブを任されていると早口で話した。アキトはどうしているか聞く間もなく、彼女はまた夜の渦に飲み込まれていった。



先般、約十年ぶりに訪れた十三の街並みに懐かしさはなかった。
霞む記憶を手繰り寄せながら、“大阪バニー”の跡地を探してみた。猥雑な男たちの群れの先にそれはあった。かつてプレハブ小屋があったその隣の駐車場だけがそのままで、それを認識した瞬間に不思議と言いようのない高揚感が駆け巡った。


ここで、幾人もの女たちが愛を千切って、その花びらを撒いては懸命にもがき生きていたのだった。