[コラム]理非不知の「鬼の居ぬ間に箸休め」(2014/10)


「紫煙に面影」



慣れない手つきでキャラメル包装を解き、上蓋を引き上げてスライドさせる。銀紙を引き破くと薫ってくる匂いは、幼少期に感じた不快感と禁断への緊張感をじんわり呼び起こさせる。


私の父は、私が十二歳の時に亡くなっている。享年五十二歳であった。
仏壇に線香を焚いたり、墓を参る他に、私だけが大切にしている父を偲ぶ儀式というものがいくつかあり、それは父が愛飲したキリン大瓶を手酌することであったり、給料日にはヱビスビールを呑むことだったり、無花果を食べること、プラムを食べること、立ち食い蕎麦を食べることだったりする。そうして柔らかい気持ちになったり、堰を切ったように大泣きしたりするのである。
日々年々、薄らいでゆく父の記憶を炙り出したり、絞り出したり、繋ぎ合せたり。時々、それらは記憶ではなく、私が書いた作り話なのではないか、父などのという人間はそもそも存在しなかったのではないかという疑念が、ひょっこりと顔を出す。答え合わせはしない。


私には煙草を吸う習慣がないのだけれど、少なくとも年一度、煙草を呑むことを許すことにしている。私が十二歳の時に亡くなった父の命日、春の彼岸、盆、秋の彼岸、暮れ。命日以外は不定期であるが、これらの折に触れて、父が愛煙していた煙草を買うことにしている。銘柄はHOPE。
墓前に屈んで、線香を焚いて、135ml缶のビールのプルタブを引き、HOPEに火をつけて、控えめに煙を吸い込む。心地の悪いものが私の身体を駆け巡っていく。眉間の皺を伸ばしてから、墓前の砂利に吸い口を埋め込んで目を閉じ、手を合わせる。言いたいことを言い終えると、煙草がフィルターまで灰に変わるまで眺めている。線香の煙と煙草の煙はちっとも交わる様子を見せないのだけど、線香を煙が一方のそれをあちらに導いて行ってくれているのだということにしている。草が燃え尽きると、供えたビールを一口啜り、砂利に流してやって、私の儀式は終わる。掌にすっかり収まるHOPEを撫でると、いつからかパッケージの材質が変わっていることに気付く。きっとずぅっと前からこうだったのだろう。


供えた後のHOPEは必ず持ち帰り、何度呑んでもちっとも美味しいとは思えないそれを、気まぐれに呑んでみたりする。一口でやめることもあれば、じりじりと一本呑みきることもあるが、口の中に漂うヤニの匂いや心地の悪さが、父が顔を寄せてきたときのそれに等しかったような、そうでないような、曖昧不明な気分。父が愛しんだ味を楽しめることなど、毛頭ない。父が呑んだ後の残りの九本を、次の墓参りまでにすべて呑みきることは滅多とない。




「本日、旧友と久しぶり会う。野球観戦後、池袋あたりで一杯やる予定。その際、娘を自慢致したく。同席可能ですか?無理はしないでネ。」


九月の彼岸が明けた頃、一通のメールが私のもとに届いた。
私には、“東京の父”と慕う人がいる。練馬で友人が営む呑み屋で、当該友人の古くからの知人として三年程前に知り合ったその人は、父と同じ昭和十八年生まれ。夫妻の間にお子さんはおらず、私を娘と称して夫妻ともども大変厚意にしてくださっている。齢七十歳超えた今もなお、煙草もお酒も減ることはない。自宅が近いこともあり、時々酒を一緒に呑みに出掛けたり、夫妻の自宅に招かれて食卓を囲んだり、早起きをして朝食を共にしたり、麻雀を打ちに出掛けたりする。

夫妻の知人の誰それさんの話やふたりの思い出話、最近のパチンコの戦果報告、旅行の話。近況報告以外に彼らが話すことは、いつかどこかで何度か聞いた話が多い。初めて聞くふりをしたり、指摘して笑ったり、オチを先回りして話してやったりする。親の加齢を近くで感じるというのはこういうことなのかしらと、心を温めたり、痛めたりしながら、彼らと過ごす時間を愛おしんでいる。


彼岸明けに酒を酌み交わした夜。“東京の父”の目論見通り、既出の旧友に娘自慢を果たし上機嫌な彼に、私はHOPEを差し出した。
「お、なんだぁ、煙草なんて持ってぇ、不良娘になっちまったのか?」と笑う。
儀式の話をはじめて夫妻にした。
「彼岸の供養だと思って、一本付き合ってやってくれませんか?」
“東京の父”は、先程まで緩んでいた表情を一瞬引き締めた後、納得したようにまた表情を緩め、「ん、君がそうして欲しいってことなら、一本付き合ってやるか。それで君が満足するなら、天国のお父さんも喜んでくれんだろ。」と、HOPEを一本引き抜いた。
「いつも3mm吸ってんだから、HOPEなんて吸ったら死んじまうんじゃねぇか。」と笑いながら火をつけて吸い込むと、案の定大きく咳込んだ。
ひとしきり大笑いすると「なんだぁ、恰好わりぃなぁ。俺だって、昔はこれくらい吸ってたんだぞ?」と弁解して、もう一度煙草に口をつけた。



もし父が生きていたら、父とどう過ごしただろうか という想像は、まったくもって無意味な上に、そもそもちっとも想像できなくなっている。
もし父が生きていたら、酒を酌み交わしたかった と常々思うが、実際に和やかに盃を傾けたかどうかは自信がない。あけっぴろげな愛情表現をしてくれる“東京の父”と厳格であった本当の父とでは無論、どうしたって違うのだけど、三十一歳になる私と七十一歳の“東京の父”とが交わす酒と会話は、父とのそれが叶わない私の心の隙間を大いに埋めてくれる。
父は私が煙草を呑むことは歓迎しなかったに違いないが、“東京の父”と酒を呑みながらHOPEを燻らせていると、何だか無性に得意な気分になった。


「ひつじ年の男は、みんな優しいんだよ。」
父と“東京の父”の共通の口癖を聞きながら、私はふわふわ。
やはり、私の思う父は、私の思う通りに存在していたのだな と、安堵の中でふわふわ。
九本目のHOPEを呑み終わる頃に漸く、父の味が身体に馴染んで、そしてあっという間に消えていった。