[コラム]理非不知の「鬼の居ぬ間に箸休め」(2014/08)


「深夜珈琲」



気の置けない友人と久しぶりに待ち合わせをして、酒を呑んだ夜の帰り道のことだった。
文字通り、私は帰路に就いているはずだったのである。呑み屋からの最寄り駅改札で友人と別れ、私はバスに乗ってすいっと帰る予定だった。
バス停に行ってみると、寸手のところでバスが出たところ。友人を見送ったばかりの駅に戻り、電車に乗り込む(降りた駅でまた別のバスを待つ破目になるのだけど)。
乗り継ぎの駅で予定通り電車を降りる。最後のバスまではまだ1時間余りある。猥雑な裏路地を散歩することにした。

どうにも収まりのつかない私は、最後の一杯を探すことにしたのだったが、興味を引く店はあれど、どうも暖簾をくぐるに至らない。そういう時は無理矢理に選び出さないことである(やっぱりあっちの店の方がよかったかしらと思いながら呑む酒の不味いことこの上なし)。
そう言い聞かせ、バス通りに出る道をズラズラ歩きはじめると、大変興味深い店に出逢うのである(諦めた瞬間にこういったことはしばしばある)。



「よるのひるね」と名乗るその店の謳い文句には“古い本と映画”とある。煉瓦造りの小さな純喫茶然とした店構えで、店先に掲げられたメニューを見ると珈琲にアルコール、ちょっとしたつまみからカレーまで、なかなか気の利く品揃えである。小窓から店内を覗くと客はいないようだ。迷うことなく私はその戸を叩いた(もとい、押し開けた)のである。

木の戸の軋む音を響かせながら店内へと足を踏み入れると、木の温もりを感じさせる佇まいの中に、馥郁たる古書の香りがほんのりと漂っているのを感じる。店内には眼鏡をかけた存在感の控えめな男性店主がひとり。カウンターからひょっこりと顔を出して私を迎えた。
L字型のカウンターには単棚が積まれていて、店内が二枚壁になっているようだった。狭いフロアには、不揃いな膝下くらいの低いテーブルが四脚、それを囲むようにテーブルに見合った小さな椅子がいくつも置かれている。テーブルも椅子も丸かったり四角かったり様々だ。それがまた愛嬌があってよい。
壁に掛けられたテレビでは、海で遭難した男女が喧嘩している様が映し出されていた。

私はカウンター席に腰掛けた。メニューを一目しビールとグリーンカレーを注文すると、本棚を物色をはじめる。

昼のセント酒、いつものはなし、美食家列伝、刑務所の中、源氏物語、猫と負け犬、赤い雪、鼻行類、純にもぬかりはある、どうせこの世は猫またぎ、…などなど

並ぶタイトルと装丁だけ見ていても愉しい。飲食店という体裁上だろうか、小説よりも短時間で読めるのであろう漫画が多いようだが、少々グロテスクで悶々とした雰囲気のものばかり目につく。柔らかな店の雰囲気とのギャップが痛快である。

ビールとグリーンカレーを平らげても飽きたらず、珈琲を注文しては、また本を手に取る。
カウンターの奥からは、電動ミルで豆を挽く音がする。空間を独り占めしている感覚が堪らなく心地好い。淹れたての珈琲を啜りはじめると、時計の進むのも忘れてしまう。持ち合わせていた紙の裏を利用して、この出来事を書き留めることを始めたのが、およそ深夜25時を迎えようという頃である。
結果、自宅までの長い道のりを歩いて帰る破目になるのだけど。



後日、ここまでを書き終えるまでに再び店を訪れた。
窓から店内を窺うと、店内には男性客が三人。思い思いの時間を過ごす様は、何処の喫茶やBarでも見慣れた光景だけども、ここではひとりで過ごすどの客の口元にも綻びが見える。

私は、今度は奥のテーブル席に着いた。すぐ横の出窓が本棚代わりになっているのだ。
この席で一番に目についたのは、つげ義春の「ねじ式」。
私は、漫画はほとんど読まないので無論、つげ義春も読んだことがないのだけど、つげ義春の話なら人が語るのを二度聞いたことがある。


一度は滋賀の田舎町で寝床を借りた時のことで、そこのご夫婦とそれを慕う青年とで、朝食を摂りながら好きな作家の話をしていた時だった。私と奥さんは瀬戸内寂聴の話で共感しあい、男性たちはつげ義春の話で盛り上がっていた。
広大な田畑に寄り添うように佇む大きな旧家だった。よく晴れた気持ちのいい朝、風通しのよい広い居間で交わす挨拶。朝からたくさんの手料理が並ぶ賑やかな食卓を、前夜知り合ったばかりの人々と囲み、文学について語らう和やかな時間は私の心の風通しも良くしてくれた。
それから、ご夫婦とは時々文通をしている。


もう一度は、好きな男と鎌倉へ一泊旅行に出掛けた時だった。
つげ義春が生涯で最も美しいと評したという観音像をどうしても観たがった彼に付いて、長谷寺へ赴いたのであった。
大きな観音像を見上げる彼の横顔があんまり素敵で、観音像を観に来たのだか、彼のその顔を観に来たのだかわからなくなってしまった。秒針が少しゆっくり動いていた。
お茶屋で熱燗を二合、一皿のおでんをわけっこして、にわか雨が過ぎるのを待ったんだっけ。肌寒い秋の入り口だった。


そんなことを思い出しながら「ねじ式」を手に取った次の瞬間、目に飛び込んできたのが、水木しげるの「水木しげる伝」上・中・下巻。


あれはあるクリスマスのことで、既出の男と肩を並べて酒を呑んでいた。どうにもこうにも色っぽいことなど起こりそうにもないのだけど、私だけが高揚していた。
最終電車の時間が迫り、店を出て帰路を急いでいると、彼が少々早口でこう言う。
「俺にはあげられるもの、何もないんで。家にある本くらいしかないんで。これで勘弁してください。」
そういって差し出したのが、この「水木しげる伝」の中巻。不親切にも中巻のみである。それと風呂敷に包んだ、彼の故郷の蜜柑を三つ。
なんと可愛いらしく愛しい人だろうかと、ますます恋慕に焦がれながら、私はこの中巻を冬の間中かけて、ゆっくりと読んだ。
上巻と下巻が私の部屋にやってくることはなかったけれど。


始まりも終わりもなかった物語が、ようやくあるべき格好で私の目の前に現れたのである。
緩む口元を引き締められないまま、深夜の珈琲を啜りながら「水木しげる伝」上巻のページを捲る。先は長い。
漫画を読み慣れていない私からすると、2センチほどの厚さの漫画を読み進めるのは、少々骨が折れるのだけど、斯くして、この店にまた訪れるべき理由ができ、すっかり私のお気に入りの場所となったのである。



深夜の寄り道と珈琲は新しい出逢いばかりでなく、思いがけず懐かしい思い出に再会させてくれる。