[コラム]藤井えい子の「鬼の居ぬ間に箸休め」(2017/02)
「溺れる魚」
手放してしまいたいものがある。
ずっと遠くに、ずっとずっと深いところに。
もう二度と戻ってこられないように。
求めて溺れて裏切られて苦しい狂おしい、それでも悦び、癒える。
浅ましくて強情でいやらしい、でも、健気で美しくて優しい、凶暴凶悪な天使ってのがいる。
楽しすぎて嬉しすぎて愛しすぎて眩しすぎて美しすぎて温かすぎて、
涙が溢れてしまう時、「自惚れんじゃないよ、ここはあんたの居場所じゃないよ、あんたは違うよ、そんなんじゃないよ、何を期待してんだ」って声が充満して、
そうでしたって、私は踵を返す。
いつもそうだった。
暗くて狭くて湿っていて硬くて哀しくて醜くて恥ずかしい、何にも持っていない。
なんにも、もっていないんでした、あたし。
どれだけ友情を振りかざしても、男と女なんて何処までいっても、只の男と女である。
嫉妬というあの雨雲のようにどこどこやってくる感情はなんだろうか。
欲情というものの方がまだ得体が知れる気がするが、憤慨したり溜め息をついたりして、勝手で、だらしなくて、虚無。
ここに居させてほしい。
だのに、いつも恋心がそれを邪魔する。
下心が、いつも私たちを試している。
素直さと後ろめたさが交わる海で、上手に泳ぐ術をまだ知らない。
この心のザラつきは、この嗚咽をもよおすような膿は、この眩暈がするような心地の悪さは、この果てしない哀しみは、私が女だからだ。
そう思ってやまない。
ただの乳房じゃない、ただの穴じゃない、私の心に触れてもらうには、どんな言葉でどんな声で喋って、どんな風に笑って、どんな風に生きればよかったんだろう。
手放してしまいたいものがある。
その代わりに、眩しい人たちから目を逸らさずにいたい。