[コラム]理非不知の「鬼の居ぬ間に箸休め」(2014/07)
「漆黒のときめき」
先般、知人がそのブログの中で「喪服」について語っているのを読み、私も色々と思うところがあったので、こちらで。
何もライブハウスを媒体にして書くようなことでもないのだけど、こういった経験、感覚や感情、考察から紡いだものが私の歌なのだから、努めて音楽家然としたようなことを書こうとしなくてもよかろう。
そもそも、音楽家の「お」の字にもまだまだ到底及ばないのだから。
さて、喪服とは無論、袖を通す機会が少ないに越したことはないのだけど、あの静謐さこそが、かえって私を黙らせておかないのである。
知人は喪服を纏うことについて、「自身は哀しみのという同じ境遇の多数の中にありながら、そこで食い扶持を稼ぐ人もある事実」を挙げて、「完全に孤独ではないが、非日常的な世界」とした上で、「世間様の中で暮らしているのに何故か一緒にいると思えない、うらぶれた混じりあえない気分」という彼女自身の日常を並行させていた。
彼女の心持ちとは恐らく同様でないにせよ、「非日常的でありながら、自身の日常的心情と切り離せない」感覚は、どことなく共感することができる。
喪服を誂えるタイミングとは実に微妙なもので、私と同世代であっても幸福なことに、これまで必要に迫られずにきたという方も中にはいらっしゃるだろう。
私は、母方の祖父が亡くなった23歳の時に誂えたのだったが、その時、なんとも言えない達成感のようなものを感じ、喪服を纏った自身の姿に、恥ずかしながらうっとりと見入ったことを覚えている。
私は12歳で実父を亡くした。
中学の入学式の翌日の深夜であった。
まだ数回しか袖を通していない中学の制服が、当時の私の正装となった。
少女は葬儀というものを通して、はじめて俗を知ったのである。
まだ着慣れない制服、記憶に居ない遠い親戚、気が遠くなるほどの儀式の数々、煙たくて沈んだ香り、遠慮がちな背景音楽、生前の父の同僚や部下たちの涙やお愛想、同級生たちの戸惑いの面持ち、分別がつかぬ幼い弟たち、気丈でいられない母・・・
そこに身を置くことの違和感や恐怖とともに、妙を確かに感じていた。
この感覚を以ってして、私は人知れず私自身を大人にしたのだと思い込んでいた。
死の実感や哀しみの許容よりも先に、頑なになることを美徳としたらしかった。
随分と鼻持ちのならない子供だったことでしょう。
制服に取って代わるものがなくなってからも、残念なことに人の死には接したが、ブラックフォーマル然とした装いで凌いでいた。
早くきちんとしたいという気持ちは、制服に袖を通したばかりの12歳の私の名残だったのではないか。喪服を手にすることで、その思いは幾らか満たされたのだから不思議。
着慣れない心地の悪さと緊張感を、漆黒の中で飼い慣らす痛快さのようなものがあったのである。
私にとって喪服とは、背筋を伸ばして心を研ぎ澄ます、戦闘服のようなものなのかもしれない。
死とはやはりセンシティブなものであるから、それくらいの装備が必要なのだろう。
延いては、穏やかに丁寧に人を思うための正装とも言えるかもしれない。
決して、哀しみをお膳立てするためのものではない。
もう一点、知人も触れていた喪服のエロスについて。
知人は幼少期に観たという、伊丹十三監督映画『お葬式』のワンシーンの記憶を挙げて、それについて語っていた。
「喪服とエロス」と言うとどうしたって品性を欠くが、では何故、喪服姿がエロスを掻き立てるのか。
それはやはり、背徳との因果を認めずには語れないのではないかと思うのだけど、それについてはここでは割愛。
ここで私が記しておきたいのは、死の傍で自身の生を認めるということ。
その生の実感の中で、図らずもふつふつと欲望が煮立つのである。
生の実感の中に現れる性的衝動を私は知っている。
その躍動を、哀しみを吸った漆黒が実しやかに隠しているのだ。
見えそうで見えないものへの好奇心、その奥にありそうなものに手を伸ばしたくなる好奇心、それはまさにチラリズム。
「背徳とチラリズム」
これらが異様な官能を漂わせているのではないだろうか。
静謐な佇まいの中にある性や欲望ほど、じっとりと湿っていて、とんでもない熱量を帯びている。
生きているんだもの。私はそれを美しいよと言ってあげたいのである。
そういう人を私は知っている。
追伸
7/18(金)、供養系フォークソングを歌いに、fireloop2001にお邪魔致します。
ひとつ良しなに。