[コラム]藤井えい子の「鬼の居ぬ間に箸休め」(2015/03)


「女の業」


私は、結婚や出産こそが女性の幸福であるという主張や価値観の強要を嫌ってきたけれども、決してフェミニストではない。自らの身体に自分以外の命を宿し、それを育むことは女性にとってかけがえのない悦びであり、存在意義として充分だと理解している。ただ、今の私がそれを求めていないというだけで、そのことを否定するつもりはないし、私もまた非難される筋合いはない。


子どもを当然かわいいと思えない哀しさや苦しみが存在するとは、多くの人が考えもしないものである。そういった彼らが悪いわけではないけれども、私だって悪くはないはずである。私はそういう自分のことをどうにか鼓舞する反面で、女として人としての欠陥を長らく憂いできたものだ。


これまでの恋愛で結婚を考えなかったわけではないが、漠然とした口約束が自らの首を絞める格好となった。相手が悪かったわけではない、あんなにも穏やかで、相手のことを心強く思った恋愛をしたことは後にも先にもない。素敵な男性だった。私は彼を傷つけたかもしれない。しかし、やはり今思い返しても結婚しなかったことを後悔していないのである。子供を産むことなど、微塵も考えられなかった。


他人と協調して暮らしていくこと、恋や性愛への関心や執着を取り払うことについて自信が持てず、結婚に前向きになれない。私は献身という美徳を持ち合わせてはいるけれども、献身と共生は必ずしもイコールでないことを知っている。ましてや協調ではないのだ。そしてその献身が向けられる対象は、いつだって「男」だった。未だ見ぬ命に夢中になる悦びも、懸命になる覚悟も見出せない。その献身でさえも凡そ、自らのコンプレックスの裏返しである、独りよがりで愚かしい、私。母性という揺るぎない愛情の足元にも及ばないのであった。

私の子宮は女ではなく、ただの雌だ。



早く結婚したくなりたい

子供を産みたくなりたい

これが私の素直な本音である。




昨年の八月に甥が生まれた。

それは、これまで親しい友人の子供にさえ戸惑い、無邪気に受け入れることのできなかった私にとって、霹靂を受けたような衝撃だった。喉から手が出るとはこういうことかと思った。実弟の腕に抱かれ目の前に在る小さな命の塊、それを見栄も照れもなく渾身の愛情で抱きしめたいと思った。抗いようのないこの煌めきが母性なのだろうか。

亡き父、幼い頃の実弟の面影を纏った甥の体温に、私の全身の血が沸いた。血を分けるという曖昧不確かな感覚が、確かに熱を持った瞬間であった。

独り占めしたいと思った。恥も外聞も構わずに力いっぱい抱きしめ、甘い言葉で語り掛け、柔らかい頬に口づけて、小さな手も足も私の中に収めておきたいと思った。しかし、それは叶わない。私は、その身を捧げて命を産み落とした実弟の嫁に対して、圧倒的な尊敬と感謝とそして遠慮をせざるを得ないことを女として直感した。敵わない。それは、なんだか、嫉妬にも似ていた。



ここ一ヶ月程の間に親しい友人から懐妊の報せを受けた。すぐ隣に座っている彼女の身体にもうひとつ命があるのだと、事あるごとにしっかりと呑みこむと、感慨深くなったり、信じ難い気持ちになったり、嬉しくなったり、そして羨ましいという感情までひょっこりと顔を出したのだから、それには驚いた。

彼女と別れた後、しばしバスに揺られてる間、随分といろんなことを考えた。子供の存在や出産や結婚に対する心境の変化に戸惑っているような、とても未熟で妙な心地である。



甥の誕生に際し、衝撃的な感動に溢れた私は母性を得たような心地になり、歌を書いたのだけれども、甥という特定の存在への愛しさだけを残して、その実感は砂のように掌から零れ落ち、数ヶ月のうちに歌わなくなってしまった。


たとえば四十二歳あたりで安らかに死ねるなら、このままでもいいのだけれど、どうせ死なないし、きっと死にたくもない。では四十三歳から果てしなく寂しいのでは想像すると恐怖だ。できれば信頼できる人が隣にいて欲しい。


だけれど、三十歳を過ぎても勝手気儘ふらふらふわふわ、こんな私が誰にどんな約束をできようか。果てのない約束を切り出したり、受け止めたりすることもまた、恐怖なのである。結婚のための恋愛も子供を産むための結婚も考えらるはずがないのだ。




「犬も猫も要らない、私より先に死んでしまうもん」

「君はいつも終わりのことばかり話すね」

「果てしないことって不安じゃない」

「ふたりでいれば、大体のことはどうにかなるよ」

「約束って、果てしないよね」

「大丈夫だよ」



あの人は、立派だったと思う。


あの時、首を縦に振れなかった私が半分融けて。それでもまだ半分が、頑なに身を強張らせている。

やさしい女になりたい。