[コラム]理非不知の「鬼の居ぬ間に箸休め」(2014/09)


「都忘れ」



拙宅から十分ばかし、緩やかな坂を下ったり登ったりした先に小さな風呂屋があって、休日の昼間に風呂に入って、肩にタオルを下げて濡れた髪を風の思うままにさせながら歩いていると、これがすごく悪くないのだ。つまり、とても好いのだ。町もそこに住む人たちも私もちっとも華やかじゃなくてね、それが無性に心地好いのである。

思い返すと私は、恋人の部屋に通うという習慣がこれまでほとんどない。

私のこれまでの恋人たちというと、だいたい仕事がないか住むところがないか、悪くするとその両方ない者もいた。その両方のある人と見つめ合ったかと思うと、どういったわけか妻や子供もあるという始末。だもんで、恋人が私の部屋を訪ねてくることばかりであったので、自分の住む町以外に思い入れというものがあまりないのである。

私は、異様に空想や回想というやつが好きなもんで、「あの人の町」というものがないのは、少々退屈なのである。

いくつか通った部屋もあったのだけど、そういえばそれらのあった町は決まって線路が道を通っていて、踏切があった。どこも静かであまり人気がなく、彼らの部屋までは十五分以上歩く必要があった。でも、そのうちの誰とも恋人にはならなかった。



「今、小さな寺のある町で暮らしています。たいして美味しくもない蕎麦屋が十五程あります。きっと気に入りますよ」

ある人はそんな報せをくれたけれども。私が漸くその町に辿り着いた頃には、もう君はその町に居なかったわね。



恋人たちが暮らした町の話を、私はもっともっと沢山聞きたかったなあ。







私の住む町は、生活感に溢れている。

小さな商店街は賑やかというほどではないが、人々の生活の営みときちんと共存している。



深夜まで営業している大手スーパーに加えて、威勢のいい売り子が店先に旬の野菜や果物を広げる小さなスーパーもある。生活用品店に大手ドラッグストア、ファストフード店、ファミリーレストラン、コンビニなどが揃い、不便はない。

それらと共に並ぶのが、ガラクタだらけの電機屋、書店、芳ばしい香りを漂わせる角の珈琲豆屋、豆腐屋、魚屋小路、服のリフォーム屋、蕎麦屋、寿司屋、老夫婦が営む定食屋、愛想のよいネパールカレー屋、埃をかぶった文具屋、アメリカンポップが可愛らしいパン屋、彩り華やかな花屋、暗い金魚屋など、その何処にも人の気配がある。愛想はないが魚の美味い呑み屋もあって大変気に入っている。

私としては、これに薄暗い静かな喫茶店があれば文句ないのだが。



この町の魅力は無論、商店街の利便性に尽きない。

拙宅から徒歩一分のところには図書館と美術館、緑の中にベンチを配しただけの公園、体育館やトレーニングルームを擁するコミュニティセンターが隣接して存在している。どれも然程大きくはないのだけど、やはり何処にもきちんと老若男女、人の気配がある。



図書館は、それぞれが静粛であろうとするからこそ聞こえてくる、素敵な音の宝庫である。

学生たちのひそひそ話、子供たちのはしゃぐ足音、小声で叱る親の声、本や新聞を捲る音、おじさんの咳払い、不定期に響くバーコードを読み取る機械音、丁寧な調子の司書の声、ノートを走るペンの音、ハードカバーを重ねる硬い音、ペンケースの中でぶつかり合う文具の音。喧噪の中では耳を澄ましていても聞き逃してしまいそうな、小さな優しい音で溢れている。その心地好さに私は、本を手にしたままついうとうととしてしまうのである。

そんな時、近くに薄暗い静かな喫茶店があったら、本当に素晴らしいのだが。





公園でギターを弾いて歌っていると、私の前を横切った少年が踵を返して、私に尋ねる。

「それはギターですが?」

「うん、ギター」

少年は続けて、この歌を知っていますかと尋ねたけれど、歌手の名前も曲名もさっぱりわからなかった。

「ごめんね。お姉さんね、お姉さんの曲しかできないの」

少年は残念そうにしたが、また続けた。

「お姉さん歌手なんですか?」

すごくない歌手ってことにしておいた。

「僕もギターやりたいんだ。お父さんが持ってる」

「私も始めたばかりで、下手くそだから何も教えてあげられることないけどね、君もきっとギターを弾けるようになるよ。帰ったらお父さんに相談だね。私は時々、ここで練習しているよ」

少年は眩しい笑顔で、また来ますねと言って、走って行った。

隣のベンチではおじいさんが、手に持った新聞を広げずに、ぼおっとしていた。

歩き出したばかりくらいの子供が、鳩の群れを追いかけている。





冒頭の風呂屋では、決まった曜日の決まった時間に顔を合わせるらしい年老いた裸たちが、最近見かけない誰それさんの話などに花を咲かせている。いい話でも悪い話でもない。ただ挨拶や合言葉のように、その話をしているといった感じである。井戸端会議ほど込み入った話はしないが、照れ隠しのように当たり障りのないことを軽快にお喋りする。風呂屋での婆さんたちの会話は実に中身がなく、進展もなく、だいたいいつも似たような話をしているのだが、それがかえって面白いものである。



私は東京という大きな「街」に暮らして七年になる。この「街」で寝たり食ったり働いたり、友達を作ったり、恋をすることには慣れたけれども、いつまで経ってもこの「街」のことが心底好きになれない。だけど、どんなに草臥れても挫けても、この町だけは私を癒してくれるのだ。千度通うなんてことのない道が、いまだに私の目を留め、足を止め、草木を見せてくれたり、溜め息を吐かせてくれたり、涙を流させてくれてたりする。

喧騒と静寂の間、そんな町に私は暮らしている。

この町を出るときは恐らく、東京を出るときだろう。





あなたが今、どんな町に暮らしているか、今度は私に聞かせて欲しい。