[コラム]藤井えい子の「鬼の居ぬ間に箸休め」(2016/02)


「おとぎ話」




隣の布団で気配が動いた。

前日夕方に彼が拙宅を訪ねてきてから12時間程、絶えず酒を身体に注ぎ続けていたが、どうやら朝は平和に訪れたようだった。



おはよう

ああ、おはよう、起きてたのか

うん



返事をして、布団の中から階下へ降りていく彼を見送った。
お手洗いに行ったのだろうということがわかった。
もう少し寝に戻って来るかと思ったが、耳馴染みのある硬い音が短く響くのが、二階の寝室まで聞こえた。



ああ、もう、はじめたんだな



微睡みの中で、それは確かに缶ビールのプルタブを引く音だと確信していた。



少しの間、静かな時間が続いた。
暫くぶりに、互いにひとりの時間を持ったようだった。


遅れて階下へ降りて行くと、彼が小さな声で歌っていた。
灯りもつけぬまま、肌寒い居間で、炬燵に足をつっこんで、秘密のノートを広げて。
テーブルには、黒いひとつ星。



やっぱり、もうはじめてると思った

うん、よく眠れた?

うん、あたしんちだから。眠れた?

うん、眠れたんだけど、すごく、やらしい夢を見ちゃって、降りてきたよ




それは災難だったわね と、私は大笑いした。
私も熱っぽく湿った夢を見ていたということは、隠しておいた。

気持ちがいいから、そのままやめないでね と言い残して台所へ行き、缶ビールのプルタブを引いた。



朝食を作っている。
居間からは、彼が弾く優しいギターの音と歌声。
これはまるで、絵に描いた幸福の様子ではないか。



前日、近所のスーパーで見惚れたイワシを二尾、つまみ上げると彼が台所を覗き込んだ。



一晩寝たイワシの様子はどう?

変わらず、お美しい

うん、いいね

いいね



背が鮮やかに青緑に発色し、てらてらと輝くのを何度も身を翻させて眺めては、喜んだ。



ああ、細かいことは気にしないから、内臓とか、よければそのまま、そのまま焼いちゃって構わないから

うん、そのつもり

そう、馬が合うね



まだ何も乗せたことがない真新しいグリルに、丁寧にイワシを並べる。
屈みこんでグリルの中を覗き込んで、イワシの様子を見守る私を、彼が頭上で見下ろしていた。



焼いたイワシ、卵焼き、前夜のイカ大根、肉団子スープ、土鍋で炊いた白米。
最後の缶ビール1本をふたりで分け合った。


腹が満たされると忽ち眠たくなり、炬燵に半身を埋めて、畳の上にだらしなく身体を投げ出す。
何か大事なことを話し忘れているような、何も話さなくていいような。



(私たちが、恋に堕ちればよかったのにね)



寂しさはいつまでたっても追いかけてきて
哀しい報せも後を絶たず
でも、他人を許すことだってできるし
あんたは、今日も歌っている

もう、くたくたになるまで踊ったりしない
今は盃を弄んでいるばかり
それでも、生きていれば幸せって
叫んだら、笑われちゃうかな


いつかのおとぎ話
あれは、誰かの作り話