[コラム] Fireloop店長野津コラム「monthlyチャリ通」 (2012年10月号)

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もういい歳した大人なんだから、例えば夏には暑いだとか、冬には寒いだとかしか言えないようなまんまではアカンなと痛感しているのです。

こんにちは。猛牛コラムの時間です。
猛牛とはあなた自身のことです。すなわち僕自身のことでもあります。

あなたは猛牛を見たことがありますか?
むしろ生きている牛を実際に見たことがない人もいるかと思います。
生きている牛を見たことがないのに、猛牛を見たことがあるかって言うと、それはそれは限りなくゼロに近い確率だと思います。

そもそも猛牛とは一体どういう存在なのか?その定義からして意見は様々であって、世界猛牛審議会でも結論は出ていないはずです。世界猛牛審議会という組織が既に架空の存在であるので、やはり猛牛なる存在の定義は確定しておらず、世界中で暮らす人々それぞれの中にある概念であると言わざるを得ません。

猛牛をスペインの牛追い祭りに重ねる人もいるでしょうし、アフリカバッファローやアメリカバイソンを想像する人、一周して「生まれたての子牛こそ猛牛足りえる存在なり!滅!」となっている人もいるでしょう。2001年にパ・リーグを制した近鉄バファローズのいてまえ打線に猛牛を投影する人、天山広吉は人間ではなく猛牛だとするロマン派の人。猛牛って放魔したゾッドみたいなヤツじゃねーの?という人。そうです。もうお分かりですね。答えは一つではないのです。正解が一つしかない、そう思い込んでしまうから争いは起こるのです。それぞれの立場にそれぞれの正解がある。自分以外の正解を否定・攻撃するのではなく、理解し、尊重しあう。それが大事。それが一番大事。猛牛が僕らに教えてくれたことはとても大切なことでした。猛牛への感謝を、これまでと同じく、いやこれまで以上に、これからもずっと忘れずにいたいですね。そして、同じ猛牛のイメージを重ね合わせられる人たちと同じ建造物の中で生活できれば、これ以上の幸せはないのかも知れません。さちアレ。お前にもさちあれ。

しかし、ここで僕達は大切なことを忘れていることに気づいてしまうのです。猛牛、そう定義された存在は、己が猛牛と定義されていることをどう認識しているのか。猛牛という存在・アイコンを背負わされてしまって、猛牛を演じ続けている、猛牛であるという烙印と認識しているのであれば、僕たちは自分の中で作り上げた自分勝手な猛牛イメージを、自分以外の何かに押し付けているのではないでしょうか。いわく、エゴ。誰かに、何かに、猛牛を押し付けることで自分自身の心の安定を図ってはいないでしょうか?自分以外を猛牛とすることを何かしらの謙虚さを内包した「善い行い」だなんて無意識に捉えていたりするのではないでしょうか?その存在に猛牛なるアイコンを背負わせてしまっているのだとしたら、そう、それは自分以外の存在の感情を全く無視した畜生にも劣る所業であり、決して行なってはいけない忌むべき行為なのかも知れません。

故に、猛牛とはあなた自身の心にある概念であると同時に、あなた自身が背負うべきものなのです。猛牛とは世界中の人々を指す言葉なのです。私は猛牛。あなたは猛牛。無数の猛牛が暮らす星、地球。


「猛牛」というワードだけで何とかする作業、終了。

Fireloop店長:野津

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