[コラム] HortNecksゴル健の「予感のような町」vol.16 (2010年03月号)

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アナログフィッシュというバンドのライブDVDを見ている。かっこよくって、呼吸の仕方を忘れてしまう。全くもって普通の気持ちじゃいられない。オコガマシサいっぱいの悔しさと憧れが渦巻いて、初めて手にしたオモチャを試す時みたいな新鮮味溢れる感情がいつもその真ん中を吹き抜けていく。
他のバンドマンが、普段どんなアーティストにどんな風に触れていて、どんな気持ちで、どんな人に届けたくて諸々の活動を展開しているのかは知らない。あえてこんなところで自分のそれを文字に興してみるならば、俺は、俺にこんな見られ方をしている「彼ら」全てが羨ましくて、彼らに触れる俺みたいな姿を客席や音源再生機器の前に求めて歌っているのだと思う。
歌謡曲ランキングでは、どこかの誰かが毎週ベストワンをとる。青白い直線が光を交わす朝方のクラブでは、今日もまたデジタルチックな何かの曲が沢山の短いスカートをヒラヒラ揺らせ、合意と目的の下にのみ生まれるその誘惑臭を嗅ぎ付けた男をヒラヒラの中へ呼び込ませる。恥ずかしげもなく、それらに対して「どうでもいい」だなんて言えてしまうのは、「彼ら」を見てきた俺がその局面にはいないからだ。
「俺が」だの「俺の」だの、音楽活動において、とりわけ今回のコラムに限っても、厚かましいかもしれない。けれども、甲本ヒロト、峯田和伸、向井秀徳など、学生時代に俺が意識的に見てきた人達は、聴き手としての姿勢を隠さない人ばかりだった(或いはリスペクトするアーティストを意図的に選別して公表していたのかもしれないし、「彼ら」はランキングに名を連ねる歌謡曲をも強かにそこに加えていたが)し、そういう背中を見てきたからなのか、好きなものや触れてきたものを前にした時の「俺が」「俺の」だけで、俺が日頃持っているはずの「伝えたい」のほとんどが満たされる気すらするし、「誰かの歌が、自分の歌にどのように関係しているのか」「また自分以外の誰かは、それをどう関係させているのか」といった事は沢山の扉と鍵を持っているはずだし、一つの問いかけとして、今回はこれを記してみたくなったのだ。あなたは一体何が好きで、何をどう、表したいのか。


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