[コラム]いおかゆうみの「ちぐはぐな日々。」(2017/03)


「本が好きな子になりますように」
そう願われて育った。

家の奥に眠っていたビデオテープを再生すると、生まれて半年のゆうみちゃん。頭の上にはおもちゃではなく、お母さんが読んでいたであろう雑誌が置かれていた。ハイハイもままならない頃、手にしてるのはおもちゃではなく、雑誌。一人で雑誌をめくって遊んでいた。保育所でお迎えを待っている間、友だちと遊ばずに絵本を読んでいた。家にはないたくさんの絵本、それらを自由に読めるのが嬉しかった。

小学校へあがってからは図書の時間に借りた本を我慢しきれず読みながら帰っていた。今思えば危ない。ダメ、絶対。
先生の「今から作文を書いてもらいます」という言葉を聞くと周りの子は「えー」「めんどくさーい」と言うけれど、うちは嬉しくてたまらなかった。書いても書いても飽きることがなく、誰よりも多い枚数の作文を書いていた。心が鉛筆を伝って文字になるのが気持ちよかった。自分が納得する表現を探すのが楽しかった。時々作文が学級通信に載せられたり、賞をもらったりする。その度にお母さんは喜んでくれた。毎日作文書けたらいいのになあって本気で思ってた。

小学校三年生、夏休みは残り一週間ほどのある日お母さんが家を出ていった。まだ文化住宅に住んでいた。玄関の鍵が壊れていていつも開いていた。とてもよく晴れた日、遊び疲れて帰ってきたら、いつもと違うことがわかった。玄関の前に立っただけで。重い空気が扉の隙間から漏れていた。それを掻き分けるように部屋へ入る。「おかあさーん」と声にした瞬間に、もう帰ってこおへんってわかった。
タンスの下から3番目と4番目、お母さんの服が入っていた引き出しを開けてみる。何もない。化粧品を直してた引き出しを開けてみる。何もない。アルバムを開けてみる。写真が何枚か抜きとられている。おかあさん、おかあさんって叫んでみた。涙は止まらんかった。おかあさんどこにおるんって呼んでみた。涙は止まらんかった。いつでも開けれる玄関の扉を、お母さんが開けることはなかった。

普段からよく遊んでいた友だちが近所に住んでいた。「めぐ」という名前の女の子。その子はお母さんと二人暮らしでうちと同じように文化住宅に住んでいた。一人で家にいたくなくて、どうしたらええんかわからんくなってめぐに電話したら、お家においでと言ってくれた。めぐは家に一人でお留守番をしていて、お菓子とお茶を出してくれた。めぐは優しく頭を撫でてくれた。そして、そのまま二人でいつもと同じように漫画を読んで過ごした。

お父さんがいつ帰ってきたのかどうやってお父さんと合流したかは覚えてへんけど、お父さんが色んなところに電話してお母さんを探してたんは覚えてる。最終的にお母さんの妹の家に行ったのも覚えてる。「姉さん、徳之島におるってよ」という言葉も覚えてる。
あー、よかった。生きてた。って安心したのも覚えてる。

お父さんはいつも仕事で疲れていたし、夜も遅かった。大人がおらん家は溜まり場になりやすい。うちの家も例外じゃなかった。だけどそれは夕方になったら終わる。夜は家に一人。夜は話す人がおらん。夜はめぐの家にも行かれへん。夜はお母さんがおらんっていう寂しさや虚しさが膨らんでいくばかり。

すぐにお父さんは引っ越しを決めた。うちが転校せんでいいように校区内のマンションへ。お父さんは一人で荷造りをしてくれた。前日も夜中までずっと荷造りをしていて、うちはマンションで従兄弟のお兄ちゃんと寝た。何もない部屋、カーテンもなくて真っ暗やったけど、お兄ちゃんと一緒やったから寂しくなかった。お父さん倒れへんやろうかと心配しながら眠りについた。

引っ越し当日、荷物が全部運びこまれて、お父さんとうちの二人の生活が始まった。その日の夜、お父さんは「これから二人で頑張ろうな」とうちを抱きしめて泣いた。それが初めて見たお父さんの涙やった。お母さんがおらんくなってからうちは「お父さんはどんな顔して泣くん?」ってよく聞いてた。お父さんは寂しくないんか知りたかった。幼くてあほなうちはその時ようやくお父さんも寂しくて虚しくてどうしようもないことに気づいた。お父さんに負けんぐらいの力で抱きしめて「もうお父さんの泣いてるところ見たくない」と言った。二人でいっぱい泣いた。

お父さんもうちも精一杯。大人になってから聞いたけど、あの時新しい仕事を始めたところやったし、路頭に迷いそうなぐらいお金がなかったらしい。だからお父さんは毎日夜遅くに帰ってきた。だけど、ほっとかれてたわけではない。よく遊んでくれたし、二人で大笑いして過ごしてた。お父さんは今よりずっと厳しくて怒るととてもこわかった。余裕がないお父さんはすぐに怒って、物に当たったりしてた。殴られたこともいっぱいあるし、理不尽やなと思うこともあったけど、お父さんにもうちにも逃げ場はない、ここしか家がないし、二人しか家族がおらんから「お父さんもお母さんも人間やし間違うこともあるよなー」と思うしかなかった。

小学校高学年になると女子たちは群れ初めた。大きなグループが二つあって、あとは大人しい子たちのグループ、みたいにグループが何個か作られていった。どのグループに属してるつもりもなかった、いつも中立にいたつもりやったけど、「ゆうみ、今日からあたしのグループな」といきなり言われたかと思ったらいきなり無視されたりした。どうでもよかった。あほらしいなと思ってた。トイレは一人で行ってたし、教室も一人で移動してた。ついてくるならきたらええやと思ってたぐらいで。

「あの子のことむかつくから今日の放課後、思ってること言うねん。ゆうみもきてな」と言われて、断りきれずに付き合ってしまった。震えながらその子の嫌なところを言った。自分の中の自分が死んでいった。したくもないことをしてしまった。一生後悔するやろなと思いながら帰った。
翌日の終わりの会の時、先生からそのことが話された。まあそりゃそうやろなと思ったし、もうこんなこと一生したくないわと思った。そして何よりも、包み隠さず話せる家族がいるその子のことが羨ましかった。
あの頃の写真で笑ってるものは一枚もない。教室では窓の外ばかり見てたし、ようわからんけど、大きなグループの先頭に立っていた二人が最後には仲良くなってたけど、うちはもう嫌になって男の子とばかり遊んでた。

クラスの女の子たちは誰も信用できんくて何にも話す気になれんかったから、放課後はいつも違うクラスの子たちと遊んでいた。小学校三年生と四年生の時に仲良かった子たち。頻繁に家に来てくれて、うちが習い事行ってる間もうちの家におった。だけどやっぱりみんないつか帰ってしまう。ただひたすらに寂しかった。

ある日お母さんが鍵付きの赤い日記帳をくれた。クリスマスプレゼントやった気がする。
その時から誰にも言えへんことを日記帳に書き始めた。心が軽くなった。自分の輪郭がはっきりしていくようやった。誰にもわかってもらえへんくてもいい。ただひたすらに文字を書いた。日記帳だけじゃなく色んなノートに色んなことを書いた。詩のようなものもたくさん書いた。


孤独やったから文章を書き始めた。
寂しさに負けんように書き始めた。

心の奥の奥の方にある感情を言葉にしようとするといつも涙が出てくる。コラムも泣きながら書くことが多かった。

そうやって書いた文章に反応があると嬉しかったし、今までの日々が報われたことで過去の自分を愛せる感じがした。

いっぱい泣いてよかったな。

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今月でこのコラムを終わりにします。
このコラムが紙媒体の時からお世話になっていました。はっきりとはわかりませんがとても長い期間でした。不定期になってしまったりと、ご迷惑をおかけしてすいませんでした。

Fireloop、昔も今も変わらず、好きな場所です。ずっと好きな場所です。

ありがとうございました。