[コラム]いおかゆうみの「ちぐはぐな日々。」(2014/06)


誰かとおーくに連れていってくれへんかなあー。

うちの言う「とおーく」はそないに遠くない。それはただの夜のドライブでいい。いつの間にか空が明るくなっていて、少しだけ後悔したりしたい。

海やな、海がいい。
けど人があほみたいにギュウギュウなって浮かんでる海は見たくないです。だって、遠くから見たら浮いてる人たちの重量感が全くない。垣間見る、命の儚さ。

ずっと見たい景色があるんです。
穏やかな海と生命力の塊のような木と歴史を積み重ねた岩、静かで優しい風。

あ、今、わかった。
ほんまに今、わかった。

徳之島や。徳之島の景色や。
徳之島とは鹿児島県奄美大島群島にある小さな小さな島。うちの両親はその島で生まれ育った。

9歳まで毎年毎年、夏休みは徳之島へ行って、
あー、暇やなあ。なーんもないなあ。って過ごすのが定番やった。母方の実家にみんなで泊まる、広くない、ボロボロの家。台風きたら吹っ飛ぶんちゃうかっていつもヒヤヒヤしてた。

おじいちゃんは水戸黄門を必ず観る。水戸黄門を観てる間、おじいちゃんの足の指をポキッと鳴らしたら10円くれるねん。気持ちよかったんやろな。

お盆にはお墓参り。

徳之島のお墓は一つずつ仕切られていて、お墓の前で宴会できるスペースが作られてる。そこで豚の角煮やらかまぼこやらが入ったお重を広げて、日本酒やらなんやらを飲んでワイワイする。ゲラゲラ笑ってお腹いっぱいになって、ご先祖様もお酒を飲んで、幸せやなあって帰る。


家庭の事情で9歳からは徳之島に行かれへんかった、さびしかった。

今年の1月末、母方の祖母が亡くなった。
亡くなったその日、うちはライブやった。ライブ会場の店長さんはキャンセルしてもいいよ、って言うてくれたけど、おばあちゃんのことを頭に浮かべたら、やっぱり、歌いたいなって思った。何より、来てくれる人がいたから、歌いたかった。

お父さんに電話で
「ゆうみ、今日ライブやから、明日朝一で徳之島行ってくるわなあ。」って言うたら、
お父さんは、ありがとうなって言うてきた。
優しい声やった。

その二日後には京都でライブやったから、翌日の朝一の飛行機で徳之島へ向かい、二日後の朝一の飛行機で大阪に帰るというハードなスケジュール。帰ってきたらすぐに京都に向かえるように、ギターや物販は空港のロッカーに詰めていった。

初めて一人で乗る飛行機。
直行便がないから、朝一の飛行機でも徳之島に着くのは12時頃。電車やバスもろくにない島やから、空港から斎場までタクシーで30分以上かかる。
斎場に着いたら、火葬場まで車で送ってくれた。骨を箸でつまんで骨壷にいれた。うちが着いたのはギリギリであと2、3分で火葬場を出るとこやった。
顔見れんかった。顔見れんかってん、それでも、白くて軽いあれがおばあちゃんなら、焼かれても残ったあれがおばあちゃんなら、うちは14年ぶりに会えたんやなあ。

斎場に戻ってご飯やお酒の用意をした。
おじいちゃんは何度も祭壇の前に行っては席に戻り、また祭壇の前に行っては席に戻る。

おじいちゃんは咽喉ガンの手術のために何度か大阪に来てた。うちはおじいちゃんにずっと罪悪感があった、ごめんなさいって何度も思ってた。上手く話されへんかった。
けど、そういうのも終わりにしたくて、うちはもしかしたらそのために徳之島に行ったんかもしらん。

おじいちゃんに何て声をかけたらいいかもわからんくて思わず強く抱きしめた。初めておじいちゃんを抱きしめた。

おじいちゃんはニカッて笑った。
それからうちが帰るまでおじいちゃんはよう笑ってた。うちにいっぱいご飯を食べさせようとして、何かあればうちを呼んだ。隣に来いって何度も言うてた。

大阪にたくさん孫はいるけれど、徳之島に行ったのはうちだけやった。
だって、飛行機やったら往復8万円、片道6時間かかるんや、行かれへんのもわかる。
わかるから、おじいちゃんは嬉しかったんやろなあ。


忙しい時間の中、叔母さんに夜の海へ連れて行ってもらった。海は優しかった。

あの頃と変わったモノもそりゃもちろんあったけど、変わってないモノもたくさんあった。

9歳までの日々や9歳からの日々を思い出すと、涙がジワッと湧いてきた、舐めた涙はしょっぱかった。

初盆のため8月に一週間ほど徳之島へ行く。
その時はギターを持っていって、おじいちゃんに歌を聴いてもらおうと思う。

夏の徳之島は宝石箱みたい。

夜空に浮かぶ星も、太陽を反射する海も。


いつか、大切な人たちをたくさん引き連れて徳之島に行きたい。みんなであの景色をみたい。